ザルハリオスの剣123



「ウソを言うなッ! お、俺にそんな記憶はないぞ!」

 ゼロは叫んでいた。自分の足下がぐらぐらと揺れているような感覚。声を出さないと、そのまま卒倒してしまいそうだった。

「ん〜? そういやお前、名前……ゼロ……だっけ?」
「そ、そうだッ!」
「へ〜え、こいつはいいや。俺も今まで気づかなかった。そっかぁ、シオン様が話してた家ってのは、お前んちだったわけかぁ」
「だから……俺にそんな記憶はないッ!」

 本当になかった。
 彼が覚えているのは、焼けるほど熱い母の血。固く強張った彼女の体。呼びかけても返事をしてくれない、首の取れた父の遺体。その手に輝く、聖剣エクスカリバー。極星シオンが、よりによって保護された? そんな事実はない。絶対に。

 だってそうじゃないか!
 あいつは父と母を惨殺し、シュラ族のみんなを……洗礼に出ていた、弟と妹を、勇敢に挑んだ友達を、情け容赦なく殺戮したんだ。今だって覚えている。昨日のことのように、はっきりとこの頭に……。

「あ……れ……?」

 そういえば、極星はいつ村に襲撃してきたんだ?
 どうしてシュラ族を選んだんだ?
 俺は……戦おうと思えば、戦えたはずなのに、なぜ母に庇われたんだ?

 分からない。思い出せない。そもそも……そんな記憶はない。

「俺は、俺は――」
「あ〜あ、こりゃ確実に、ペリュトンの野郎の餌食になってんな、お前」

 ソラが哀れんだ目で見つめてきた。「ペリュトンの……餌食?」混乱しきった意識を何とか奮い立たせ、ゼロは混乱の元凶を睨んだ。

「あいつはシオン様に使役されてる召喚獣のくせに、異常なくらい欲望が強いんだ。俺も詳しいことは分からない。けど、シオン様はひとつだけ教えてくれた。あいつの、得意技について……ね」

 ソラは橋桁に両肘をつき、地上を見下ろす格好になると、おもむろに語り始めた。天空はずいぶんと静かになった気がする。そろそろ、連合軍とザルハリオス帝国による空中戦も終焉間近というところなのだろうか。それなら、ぐずぐずしてはいられない。

 手っ取り早く話を終えて、この連中を殺すか。
 いささか長話に飽きた神皇五星衆の少年は、そう思った。






The sword of Zalharioth
Episode123 & Another Episode of SYURA
『血染めの華・後編』






 集落に着いたのは、既に真夜中になってからだった。とりあえず報告などは明朝にワン自身が出向くということになり、調査隊のメンバーは一旦解散。それぞれの家路についた。シオンはワンの後について、夜道を歩いた。

『田舎だろう』

 ワンは言った。

『こういう雰囲気、好きですから』

 どこかで虫が鳴いている。丁寧に耕された段々畑。山地を削って作られた村のようだった。シオンは、漂う夜気を十分に満喫していた。どことなく、懐かしい感じもする。小川のせせらぎが聞こえた。ささやかな桟橋を渡っていると、カエルの鳴き声が二人の耳に入った。

『明かりが点いてるな……。まだ起きてるのか』
『奥さんですか?』シオンが尋ねる。
『ああ。心配性で参るよ』
『愛されてる証拠じゃないですか』

 簡素な作りの家に到着した。壁は石造りだろうか。綺麗な白色をしているようだ。月明かりに照らされ、神秘的に輝いている。ワンはドアを開け、ただいま、と控えめに言った。中から、穏やかな笑みを浮かべた女性が出てくる。彼女はワンの姿を見留めると、静かにおかえりなさい、と声をかけた。身に纏った寝間着が、夜風にそよいだ。

『その子は?』
『現場で保護したんだ』ワンはシオンを一歩前に出し、答えた。『記憶を失っているらしい。族長のところへは明日挨拶に行くから、今夜はウチに泊まってもらおうと思ってな』
『そうだったの』

 ワンの妻、ルイーゼは、シオンに向かって優しく語りかけてきた。

『大変だったわね』
『あ……はい。こんな夜分遅く、お邪魔してしまって申し訳ありません』
『いいのよ。疲れたでしょう、すぐにベッドを用意するわね』
『その前に、風呂に入れてやってくれないか。ずいぶん汚れてしまっているし、女の子だしな』

 ルイーゼはそんな夫の言葉に、心底意外そうな顔を見せた。

『あら、あなたが女の子を気遣うなんて信じられないわ。どういう風の吹き回し?』
『お前な……ケインみたいなこと言うなよ』
『ふふ、冗談よ。ええと――』
『シオンといいます』
『初めまして、シオンちゃん。私はルイーゼ。仲良くしましょうね』
『はい』

 ルイーゼとシオンとのやり取りを見ていたワンは、改めて、この子のはずがないと思った。生き物をまるでゴミのように引き裂く、残虐非道な行為。犯人は少なくとも、凄まじい怪力の持ち主か、強大な魔力の使い手だ。華奢な彼女からはそんな雰囲気は微塵も伝わってこないし、何より、常人ならば胃の中身を戻してしまうほど凄惨な殺害現場を作り出せる人物には、到底見えなかった。

 入浴しているルイーゼとシオンを待つ間、ワンは子ども部屋に向かった。大きな音を立てないよう、そっと三つのベッドに近づく。窓から差し込んだ光に照らされて、ワンの、世界で最も愛しい子どもたちが寝息を立てていた。昼間の訓練疲れだろう。長男のゼロは毛布をほとんどかけておらず、ベッドに大の字になって寝ている。枕元には鞘に入った真剣。眠るときでも武器を手放そうとしない息子の心構えに、ワンは誇らしさと、一抹の不安感を覚えていた。

 毛布をかけ直してやり、隣のベッドで寝ている次男のガルクを見遣る。兄とは対照的に、首までしっかりと毛布にくるまれていた。何かと周囲にゼロと比較され、面白く思わない日は少なからずあるようだ。しかし、いつもガルクは兄について回っていた。無邪気に笑いながら、ゼロの後を追って走っていた。もう少し大きくなると、きっとその光景も見られなくなるだろう。思春期を迎える頃には、兄に引け目を感じ始めるはずだ。避けては通れない道とはいえ、それを思うと、父親としては胸が痛んだ。

 対面のベッドの長女シェリルにとって、正直この村はいい環境とは言えない。武器を使った戦闘に関する先達は数多く存在し、師にも困らないが、一転して魔法使いを育成するとなると、シュラ族は力不足だった。索敵班に数少ない魔法使いが所属しているとはいえ、彼女が本格的に魔法を勉強したいとなれば、それこそウィンダスにでも留学させねばなるまい。外の世界とほとんど交わりを持たないシュラ族にとって、それは大きな課題だった。

 ……だが、それもこれも、まだ先の話。

 ワンは溜息をついた。我ながら、結論を先送りしてばかりいるな、と自嘲気味に笑う。子どもはいつか大人になり、自分たちの意志を持って生きていこうとし始める。それを咎める権利は誰にもないし、ましてや親であれば、彼らを全力で応援していかなければならない。長男はそろそろ反抗期に差し掛かってきたようで、父親に対する態度が最近冷たい。既に思春期真っ盛りのカシスを子に持つ、子育ての上では先輩にあたるケインも、父親は辛いねぇ、とこぼしていた。その上で、でもきっと、シェリルちゃんの反抗期が一番厄介だぞ、と釘を刺されてもいた。

 そんな日々がやってくるのは辛いけれど、楽しみでもあった。
 いつか、成長した子どもたちと、そんな話をしながら飲み交わす酒は、きっと至高の旨さだろう。年老いた自分を、育てた子どもたちが囲んでくれたら、それ以上の喜びは存在しないと言っていいに違いない。その日まで、まだまだ俺も頑張るぞと、ワンは白い月を見上げるのだった。



+++



 翌朝、強行軍の疲れが取りきれないまま、ワンがリビングへ入ると、彼以外は全員が目を覚まして食卓についていた。朝の苦手なゼロまでも、隣で微笑むシオンに懐いて離れない。シオンはゼロとガルクに挟まれた格好になり、右に左に話を聞いて忙しそうだ。一方のシェリルは、兄を両方とも一度に取られてしまったと思っているのか、対面の席でルイーゼにしがみついていた。

『あ、おはようございます。ワンさん』
『おはよう。よく眠れたみたいだな』

 朝も早いというのに、シオンの可憐さは寸毫たりとも衰えていなかった。彼女の笑顔を見れば、一瞬で眠気など吹き飛んでしまうかと思われるほどだ。

『すごい人気だね』

 ルイーゼの隣へ座り、ミルクを飲みながらワンが言った。

『ほんとに。寝起きでこんな可愛い女の子が朝ご飯作ってるんですもの。年齢関係なく、目が覚めちゃうみたい』

 不機嫌そうに朝食を頬張るシェリルを宥めながら、ルイーゼが答えた。

『シオン、今日は族長のところへ行こう。昨日の報告をしなければならないし、君の今後の方針を考える必要もあるからね』
『分かりました』

 こくりと頷き、シオンは再び袖を引っ張るゼロに向き直る。

『おいおい、お前たち。そんなにするとシオンちゃんが困るだろう』
『だってお父さん、いっつも俺たちと遊んでくれるって言ってウソつくじゃんか』ガルクが不服そうに口を尖らせる。『だから今日はシオンちゃんがお父さんの代わりなんだ』ゼロも弟に加勢する。

『今日って、ガルクとシェリルは【洗礼】の日だろ?』
『そうだよ。シオンちゃんに一緒に来てもらうんだ!』

 はち切れそうな笑顔で、ガルクが言った。

『ダメでしょ? シオンちゃんは族長様のところへ……』

 ガルクを諭そうとしたルイーゼの言葉をワンは遮った。

『いや、いいだろう。とりあえず報告は俺ひとりでもできるからな』
『え? で、でも……』言い淀むシオン。
『これからどれくらいこの村に滞在してもらうかは分からないが、シュラ族について理解を深めてもらうためにも、洗礼の現場を見ておくのは悪いことじゃない。だが、族長にはきっちり挨拶しないとな……正午にしよう。ゼロ、正午過ぎまでに、シオンちゃんを族長の家まで送ってくれ』
『分かった』
『あなた……いいの?』
『なあに、族長だって頭でっかちじゃない。それくらいは許してくれるさ』

 父親として、ろくな働きができていない。ワンはそう思った。明るく振る舞っているが、子どもたちは子どもたちで寂しさを噛み殺しているのだろう。それを和らげてくれる存在がシオンだとしたら、彼女が子どもたちに連れ添ってくれることは大いに喜ばしいことだ。仕事にかまけて、見ず知らずの少女に子守を押しつけている。それも重々承知していた。

 それもこれも、妻子のため。
 ワンは椅子から立ち上がり、出かける準備に取りかかった。途中、膨れっ面をしたままのシェリルを優しく撫でた。『大丈夫だって。お前ももう少し大人になったら、シオンちゃんみたいに綺麗になれるから』それで機嫌が直ったかどうかは分からないが、シェリルはじとっとした目でワンを見つめた。可愛くて人気が出すぎるのも考え物だな、とワンは思った。

 族長は、自宅でワンを待っていた。
 何でも昨夜は報告を待つ余り、熟睡することができなかったそうだと、彼の従者が言った。ワンは階段を上り、族長の執務室の前までやってきた。シュラ族伝統である彫刻が施されたドアをノックすると、どうぞ、と中からしわがれた声が聞こえた。『失礼します』ワンはドアを開け、中へ入る。族長の他に、二人の補佐役がワンを待っていた。ただの調査報告なのに、随分と重々しい応対だなと彼は思った。

『報告が遅れて申し訳ありませんでした。昨夜、帰還したのが夜更け過ぎだったため、私の判断で調査隊を解散し……』
『構わん。ご苦労じゃったな、ワン』
『いえ』

 族長は椅子の背もたれに深く腰を落ち着け、何やら思案を巡らせているようだった。ワンは、このまま報告を続けてよいものか逡巡した。

『重大な事実があれば、時間など関係なしに報告しに来るはずだからな、お前は』

 補佐役の一人が言った。

『はい。お察しの通り、魔力震が検知された現場まで赴きましたが、原因は分かりませんでした。ただ――』
『ただ?』

 不意に族長が垂れ下がった瞼を見開き、ワンに訊いた。

『その現場は、アリログ族の住処でした』
『アリログ族? 奴らが魔法を使用した……と?』
『それはないようです。彼らと交戦しましたが、その際も肉弾戦のみで、魔法の使用などありませんでしたから』
『では、一体なぜ……』
『アリログ族は、既に何者かによって重傷を負わされているようでした』

 三人の検分役が、揃ってワンの言葉に耳を傾けた。

『彼らのテリトリーには、普通では考えられないような殺され方をした死体が無数に転がっていました。恐らくは、何か強大な力を持つ者にやられたのでは……と』

 そこで、ワンの脳裏に一人の少女の姿がフラッシュした。
 馬鹿め。ありえない。やめろ。
 平静を装い、表情を固く強張らせる。

『そやつが、魔力震の原因……』
『無論、推測ですが』

 族長は再び目を閉じ、何やら黙考し始めた。
 ひょっとすると……。
 報告はこれまでにした方がよいのではないだろうか。ワンはそんなことを思った。魔力震の原因は突き止めることができなかった。それを引き起こした人物も、目星は付かない。それならば、族長らを混乱させかねない要素は口にするべきではないのかもしれない。

『少女が一人……』

 頭では口を開くまいと思っていた。沈黙を破り、自ら発言するつもりはなかった。だが、ワンの声は静かに執務室に響き渡り、族長と補佐役の意識を自らに集中させる結果になった。『なんじゃと?』族長の目が開く。

『あ、その……。アリログ族の住処で、少女を一人発見しました』

 誰も、何も言わない。

『記憶をなくしているようだったので、その場で保護しました』

 どうして、なぜ……。

『私の自宅で療養させています。ガルクとシェリルの洗礼の儀へ同行しているはずです』

 なぜ何も言わない。

『美しい少女で、年の頃は16歳から18歳程度だと思います。そ、それで、彼女の今後についてもご相談したく……』
『名は』

 その声は、今までワンが聞いた族長の声の中で一番低く、重かった。言葉が意図している内容を理解することができない。ワンは今、質問されているのだろうか。それとも、何か他の考えを求められているのだろうか。

『ワン、名を言え』

 補佐役が言った。

『か、彼女は無関係です。アリログ族の巨体をあそこまで破壊する力があるとは、到底思えませ――』
『聞こえなかったのか? その娘の名を言えと申しておる』

 現在では引退しているとはいえ、かつてシュラ族で最強を誇った族長の威圧は、半端なものではなかった。百戦錬磨のワンですら、思わず身震いするのを禁じ得ない。名を言ってはいけないと、直感的に思った。深い皺が刻まれた族長の表情が、時を追うごとに曇っていく。それは憤怒とも悲哀とも受け取れた。だが、どんな感情だったにしろ、彼にシオンの名を告げてはならないと、ワンの本能が警鐘を鳴らしていた。

 すると族長はワンの予想外の行動に出た。補佐役たちに何やら命じ、ワンを無視して事を進め出したのである。面食らったワンは、補佐役たちが部屋を出て行くのを止めることができなかった。『族長!?』そう言うのが精一杯だった。

『ワン、勘の鋭いお前のことじゃ、おおよそ、わしの考えは見抜いておろう』
『なぜですか!? どうして戦場で見つけた少女に、それほどの殺気を抱くのです!』

 族長は黒ずんだ瞼を一瞬閉じ、すぐに開いた。

『……あれは、もう三十年近くも前になるか』
『?』
『お前はまだ生まれたばかりだったじゃろう。話くらいは、聞いたことがあるかもしれんの』
『族長、何を……』
『それはデーモン掃討作戦≠ニいう名の【惨劇】じゃった』

 族長の眼光が更に険しくなる。ワンの背筋を粟立たせるほどに。

『当時、闇の王に支配されていたデーモンたちは、加速度的にその勢力図を広げておった。それを食い止めるため、わしらシュラ族は、サンドリア王国と同盟を結び、大規模な討伐隊を組織して打って出たのじゃ』

 有名な昔話だった。ワンも、幼い頃からよく聞かされていた。歴史の表舞台に立つことがないシュラ族にとって、他国と手を結んで敵対勢力と戦うのは極めて稀である。

『その話なら、知っています。隊を率いていたのは、若い頃の剣神・エリアス=デュセイア卿でしたね』
『いかにも。わしも討伐隊に参加しておったが、あれほどの剣豪はシュラ族にもなかなかでてこんじゃろう』
『しかし……その話と』シオンの名を出しそうになり、慌てて言葉を繕うワン。『……今回の件、どう関係するのです?』
『……ワンよ、その戦、勝敗は知っておるか?』

 当然だった。一族に伝わる英雄譚に、負け戦などひとつたりともない。その旨を族長に告げると、彼は自嘲気味に笑った。やけに高い声で。

『総じて言えば、じゃな。確かにわしらは、各地に進出しようとしていたデーモンの軍勢をことごとく撃破し、民からは救国の英雄と呼ばれた。じゃがある一点≠除いて、の話なのじゃよ。その勝利に彩られた英雄譚は』
『ある、一点?』
『そう、ある部隊が壊滅させられた。それはもう、完膚無きまでに叩きのめされた。虐殺、と呼んでも構わん。それほど、一方的な敗北じゃった』

 族長の目が宙をさまよっていた。おそらく彼は、この部屋にいるのではない。ずっと昔の、戦場の空気を吸いながら話をしているに違いなかった。

『……その部隊を率いていたのは、総大将であるエリアス卿。そして、補佐を務めていたのが、わしじゃ』馬鹿な。ワンは叫んでいた。

シュラの長い歴史の中でも、戦において、もっとも気高く、そして強かったと讃えられているのが、今ワンの目の前で話をしている族長であった。若い頃の通り名は羅刹王=Bその天衣無縫の強さは、当時全盛期で、世界の頂点に君臨していたエリアス=デュセイアに比肩しうる数少ない人物と言われていたほどだ。

『エリアス殿と族長のいる部隊が、デーモンごときに敗れるなど……!』
『ところがわしらは負けた。無論、デーモンに負けたのではない。その場にふらりと現れ、突如デーモンどもを指揮しだした、たった一人の女に』

 胸が小突かれたのかと思うくらい、ワンの心臓が跳ねた。

『サンドリア騎士の剣技も、シュラの刃も、あやつには微塵も通用せんかった。それもそのはずじゃ。その女は、失われた超大国に君臨していた、大いなる存在じゃったからな』
『失われた……超大国?』
『お伽噺で聞いたことくらいはあろう。ザルハリオス帝国≠ニいう名の国を』
『そんな馬鹿な!? 誰も信じません! 子どもらに聞かせるお伽噺じゃないですか! それに、もし本当だとしても、二百年近くも前に滅びたはずでしょう!? あの子がそんな……』

 族長の薄く開いていた目が、くわり、と見開かれる。

『ワンよ、なぜ、わしの話の極星≠ニ、お前が保護した少女を重ねた?』
『え……?』
『わしはまだ話を終えてはおらぬ。じゃが、お前はわしが極星≠ニその少女が同一人物ではないかと疑っている……そう思ったのじゃな?』
『そ、それは――』
『少なからず、お前は訝しんでおったのじゃよ。心の奥底で。意識の最奥で。自分でも気づかない、最果ての感情で。自分が救った……シオン≠フことを』
『!?……そんな、どうして……!』

 族長が立ち上がる。年齢を重ね、足腰が弱っているとは思えないほどの速さだった。手には長年愛用している刀が、既に握られていた。青黒い筋が、族長の掌にほとばしる。

『どうやら正解したようじゃ』
『!?』
『ワンよ、お前は素直すぎる。そんなことでは、わしの跡を継がせるわけにはいかんぞ』

 そこまで族長が喋ってから、ワンはやっと気づいた。族長のかけたカマ≠ノ、まんまと引っかかってしまったことに。『もっとも……』かつて羅刹王≠ニ呼ばれた男は、既に歩き始めていた。あまりの風格に、ワンは声を失う。

『今ここであやつにこの集落を焼かれれば、跡継ぎどころの話ではないがのう』
『ぞ、族長ッ! シオンは……シオンは、ちが――』

 振り返ったワンの首筋に、一瞬激痛が走った。鞘走った族長の刃が、その剣閃をまだ残しているように見えた。意識が薄れる。こうも容易く急所をやられるとは。ワンは黒々と広がる血の染みのような闇の果てに、族長が消えていくのを、ただぼんやりと眺めることしかできなかった。

 時間にすれば、ワンが意識を失っていたのはほんの僅かな間だったのだろう。しかし、再びその目を開いたとき、彼の脳裏によぎっていたのは、どれもこれも絶望的な結末でしかなかった。そのうち、もっとも最低なクライマックスだけは、何としても避けなければならなかった。現場までは相当な距離がある。まだ、間に合うはずだ。ワンは走り出していた。不気味なほど静まりかえった族長の家を出、疾風のごとき速さでひた走る。目指す場所は、シュラ族洗礼の地。首筋に宿る鈍痛に顔をしかめながら、ワンは陽が傾き始めた村を駆けた。



+++



 シュラ族の洗礼は、森の中にある寺院で行われる。この村ができると同時に建立された寺院は、古くから多くの勇者を送り出してきた。千段以上ある石段を登り、更に奥へ進んだ先に、本殿が存在した。いつもは大いなる静謐に満ちた、本殿の前。尋常ならざる緊張感と殺気がみなぎっていた。

 十名あまりの屈強なシュラ族が、三人の若者を取り囲む。寺院の宮司はその後ろで慌てふためき、どうすればよいのか分からずにいた。鬱蒼と茂る木々の影が、ゆったりとした風に煽られて、絶えず動き回っている。木漏れ日に時折照らされるのは、困惑した表情のガルク、シェリル、そしてシオンだった。

『ガルク、シェリル、繰り返す。そやつから離れい』

 ガルクとシェリルは、未だかつて、族長の、このように鬼気迫る顔を見たことがなかった。いつも機嫌良く二人を構ってくれる優しいおじいちゃん≠ヘ、今、彼らの目の前で完全なる鬼と化している。

『い、いやだ!』ガルクが叫んだ。『どうしてみんな武器を持ってるんだよ! シオンちゃんが何したってんだよ!』
『……ガルク』

 族長は憐憫の目をガルクに向け、すぐさま羅刹の眼光でシオンを睨みつけた。

『おのれ極星=I まやかしで幼子二人をたぶらかしたか!』
『きょ、極星……? 私には、何のことだか……』
『とぼけるな! 我が同胞を無惨に殺したその顔、何十年経とうが忘れるものか!』

 声を発したのは、族長の補佐役だった。彼の武器は槍。その穂先が、ぴったりとシオンの動きに合わせて差し向けられる。シオンの服の裾に、シェリルがすがりついた。兄二人を取られたものと思い、朝はあれほどシオンを毛嫌いしていた彼女だったが、この場の異常な空気はその幼い心を十二分に追い詰めていた。

『……族長、まずは話し合いをするべきでは……』

 一触即発の雰囲気を和らげようと、族長の隣のシュラ族が言った。随分と若い。手には長剣が握られているが、その刃はシオンに向けられてはいなかった。

『……カシス、そうか。お前はまだ十五じゃったの』
『誇り高きシュラ族が、女性相手にこの人数で半ば脅しめいたことをするなんて……』
『カシス! 言葉がすぎるぞ!』

 誰かが怒声を発した。

『よい。わしも三十年前、初めてこやつに出会ったときはそうしようとした。その結果がこれじゃ』

 族長は被っていた帽子を投げ捨てる。その下にあったのは、惨たらしい古傷だった。額から頭頂部にかけて、斜めに亀裂のような裂傷が走っている。毛髪は生えていない。完治してはいるが、負った当初は相当な怪我であったことを窺わせた。カシスは初めて見るその傷に、慄然とした。

『こやつに慈悲などない。じゃが、どういうわけか、今のこやつは記憶を失っておるようじゃ。これほど追い込まれても、わしらに危害を加えようとはせん』
『そ、そうですよ! 無抵抗な人間相手に、これ以上……』
『いや』

 カシスは最初、つむじ風でも起こったのかと錯覚した。隣にいた族長の姿がかき消え、一瞬後に前方で曇った音と、女性の悲痛な叫びが同時に聞こえた。驚いてそちらに視線を向ける。カシスの常識では考えられない光景が広がっていた。

『好都合≠カゃ。このまま大人しく……死ね』

 族長の剣先は、本殿へ続く木造の階段に突き刺さっていた。その木目に、刀身を伝って赤々とした鮮血が沁みる。階段と刀の鍔に挟まれているのは、シオンの右肩だった。その横で宮司が凍り付いている。『どれほど揶揄されようが構わん』族長は刀を抜き、うずくまるシオンの頭上に掲げた。その目は血走り、唇はわなわなと震えている。

『貴様はここで必ず殺す』

 刀を振り下ろそうとした族長の体が、不自然に傾いだ。『む?』小さな体が、彼の足下にすがりついていた。シェリルだった。泣きじゃくるシェリルは族長から離れると、そのままシオンに抱きついた。火の点いたような泣き声は、木々のざわめきに同化し、消えていった。族長は身を屈めた。刀を鞘に収め、力を込める。居合い抜きの構えだ。それを見ていたカシスは直感した。どうあっても、族長はシオンを殺すつもりらしい。胴体部分にシェリルがまとわりついているので、剣閃を上げ、首を切断するのだろう。

 左手で肩を押さえ、右手でシェリルを抱いたシオンの目は、虚空を見つめていた。冷や汗だろうか。頬を水滴が伝っている。口がぱくぱくと動き、心なしか体全体が震えているようだ。族長は戦慄した。あの日≠ニ同じだ。一瞬で仲間が肉片にされ、ばらまかれた三十年前と、この女は同じ顔をしていた。

 早く、早くしなくては。
 一息で刀を抜こうとした族長の耳に、そのか細い声は届いた。彼だけではない。その場に居合わせた全ての者に、声が聞こえていた。それは樹木の葉がこすれる音よりも小さかったが、耳元で大声で喚き叫ぶ騒音よりも明瞭に響いた。

 シェリルの体を、力なくシオンの手が突き放す。涙で真っ赤になった目を、シェリルは彼女に向けた。異常なくらい青白い顔をしたシオンが、がくがくと震えていた。その口が開く。もう何度も繰り返している台詞を、シオンは再び言った。

逃げて。

 シオンの目尻から一筋、涙がこぼれ落ちた。それは、この世の汚れを全て凝縮したかのような、深淵の黒色だった。

『御免ッ!』

 族長が雷の踏み込みで、シオンに斬りつける。もはや何が起ころうと躊躇してはいられない。シェリルの頭部を掠め、刃は正確にシオンの首筋をとらえた。だが、薄皮一枚に達したところで、族長の刀は止まった。いや、何か固くて弾力のあるものに阻まれた。

 次の瞬間、何千何万という敵を屠ってきた、羅刹王≠フ右腕は、高々と宙に舞っていた。鮮血を撒き散らしたそれは、シュラ族の戦士たちの中心にボトリと不気味に落下した。声にならない悲鳴が、そこから漏れる。自らの腕を一瞬で切断されながらも、族長はシェリルとガルクを残された左腕でまとめて抱え、距離を取った。石畳に点々と、赤い血が垂れ落ちる。補佐役たちに子ども二人を預け、族長は右腕を縛った。

見事に肘から先がなくなっている。これは斬られたのではない。無造作に引きちぎられた傷だ。彼は自分の体が押さえようのない恐怖に支配されていることを知った。そしてこれは、三十年前、エリアス=デュセイアと共に経験した、あのどうしようもない恐怖感と酷似していることを確信した。『おのれ……!』唇を噛んだ族長の視線の先で、少女はゆっくりと体を起こそうとしていた。肩口は鮮血に彩られ、振り乱された髪は顔全体を覆っている。

もはやそこにいたのは少女ではない。得体のしれない恐怖≠ェ、階段を手摺り代わりに、緩慢な動きでシュラ族たちの前に立とうとしていた。

『構えよ!』

 族長の一言で、戦士たちは我に返る。各々が武器を構え、臨戦態勢を整えた。あれほど女性に剣を向けるべきではないと主張していたカシスでさえ、蒼白の顔を引き攣らせながら、鬱血するほど強く剣の柄を握る。

『……おやおや』

 それは水中で発した声のようにくぐもっていた。喉の奥に何かを詰まらせ、無理矢理声を絞っている風な発声。とてもシオンの口から出たとは思えないほど、汚らしく、そして奇妙なくらい大きな声だった。

『これは面妖な……。また<Vュラ族の連中か?』
『き、貴様! やはり……!』族長の双眸が見開かれる。
『ここ十数年は眠っていられたのに、性懲りもなく私を起こすとは……』

 シオンは完全に立ち上がっていた。階段の中腹でシュラ族を見下ろす格好の彼女は、さながら降臨した神のようだった。だが、彼女から発せられている気配は、完全に神とは真逆の代物だったが。

『よほど、滅びたいらしいな』

 突風が吹いた。木の葉が乱舞し、境内に踊る。その中心で、シオンは嗤っているように見えた。髪の毛に隠れて見えないはずの彼女の顔は、シュラ族たちの脳内で艶やかなあざ笑いに変換された。

『……私が命じられたのは二つ。許された行為も二つ』シオンが階段を一段下りる。その分、シュラ族たちは一歩後退する。

『命じられたこと、一つ。帝国復活まで、あらゆる手段を用いてこの女≠守ること』

もう一段。もう一歩。

『二つ。この女≠ノ危害を加えた者は、残らず抹殺すること』

 極度の緊張状態だったカシスがそれに気づけたのは偶然だった。一歩ずつ自分たちに近づいてくるシオンの影が、おかしい。何がおかしいのかはよく分からない。カシスは集中して考える。自分の影と、彼女の影を比べてみる。

 自分の影は、沈みゆく背後の夕陽に照らされて、長く伸びている。その先にあるシオンの影。形はおかしくない。地面の凹凸に即して縁は変わっているものの、不自然な形ではない。ではなぜ? 何がこれほどの違和感となってカシスを襲ったのか?

 シオンの影がすっと伸びた。そして、シュラ族数名の影と重なる。そこでようやく、カシスは気づけた。だが、遅すぎた。視界一杯の赤が広がった。

 どうして、シオンの影は
太陽を正面にしているのに

 こ ち ら 側 へ


 伸  び  て



         い……。



















『……私はね、起こされるのは嫌いだが、腹が減るのはもっと嫌いなんだよ』

 夕陽を見つめながら呟くシオンの周囲には、人間の残骸が転がっていた。バラバラになった手足が散乱し、両脇にある木々には臓物がツタのようにぶら下がる。ゆったりとした下り坂になった石畳を、汚物に塗れた大量の血液が流れていった。

『何十年、何百年先になるか分からない帝国復活まで、じっと眠ったままでは、さすがの私も餓死してしまうかもしれない』おもむろに、シオンが振り返る。『まあ、そんなことはないのだがね』

 この場で生きているのはシェリル、ガルク、そして……。

『だが、起きたばかりの私は本当に腹が減っている。誰かの存在≠喰いたくて喰いたくて、今にも発狂しそうなんだ』

 幼い兄妹にもはっきりと分かった。これ≠ヘシオンではない。澱んだ眼球に、今朝の輝きは微塵もない。張り付いた笑みに、シオンの真意はない。ガルクはシェリルを背中に隠し、必死で襲い来る恐怖と戦っていた。

『……ほう?』

 するとシオンは、何かに気づいたような素振りで石畳の脇の藪を見た。血と臓物でめちゃくちゃになった草を掻き分け、一人の少年が剣を構えて出てくる。だがその体は大きな損傷を負っていた。片目は潰れており、夥しい量の血液がどくどくとそこから流れ出ていた。

『死ななかったか。小僧、年の割に、大した才を持っているようだな』
『……お前=A何者だ』

 自らの死を本能的に悟った少年、カシスは、せめて黄泉への土産にと、正体不明の恐怖≠ノ向かって尋ねた。族長をはじめ、歴戦の猛者たちをまるでゴミ屑のように瞬殺してしまった相手だ。どうあがいたところで、自分の死は絶対だと確信できた。

『……私に許された行為、二つ』
『なに?』
『一つ』シオンは……否、もはやシオンであるかどうかすら疑わしい生き物は、勿体ぶった足取りでカシスに歩み寄った。『私はね、この女≠守る代わりに、この女≠フ記憶を自由に操ることができる』
『……?』
『本来ならば私の助力など必要ないほどの力を持っているからね、この女≠ヘ。それじゃ面白くないんだ。できるだけ多く、この女≠ノは危ない目に遭ってもらう必要がある』
『何だと』

 カシスはもう半歩先にまで迫ったシオンの鼻先へ剣を突きつける。だが、そうまでされても彼女は眉一つ動かさなかった。

『私が、食事をするためにはね』

 死を可能な限り先延ばししようとするシュラ族の本能とも呼べるものが、カシスの傷ついた体を突き動かした。多くのシュラ族を葬ったように、シオンの影が鋭利な刃物と化して、藪の中にいたカシスを襲った。間一髪でその攻撃を回避すると、そのまま彼は惰性で転がり、寺院の階段で震えるガルクとカシスのところまで行くことができた。

『これもかわしたか。あと二、三年もあれば、いい剣士になれたのになぁ』

 肩越しに三人を見たシオンの目は、正視を躊躇うほどの光に満ちていた。光眸ではない。見る者を射竦める、邪眼である。『……ん?』その目が、一瞬揺らいだ。

『なんだ、もう起きたのか。相変わらずこういうときだけは寝付きが悪いね、キミは』

 シオンは薄ら笑いを浮かべながら、自らの額の少し上辺りを見ていた。そして、ぶつぶつと独り言のようなことを呟いている。どう考えても隙なのだが、追い詰められた三人の子どもに、この得体の知れない化け物の間隙を縫う勇気は、このとき持てなかった。

『……なにぃ? どうせ殺すんだぞ……。当たり前だ。それがルール≠ネんだよ。もっとも、その旨は私とザルハリオスしか知り得ないがね……。ふふ、悲しい声を出すのはやめておくれ。私まで涙が出そうになる……。分かったよ、他でもない、キミの頼みだ。叶えてやるさ、もちろんね……』

 ひとしきり喋ったシオンは、がっくりと肩を落とし、顔もほとんど真下へ向けてしまった。虫の声さえ聞こえない、全くの静寂の中、次にシオンが出した声は、紛れもなく少女シオン≠フものに相違なかった。

『……ごめんね、ごめんね、ガルク……シェリル……。私、また忘れていたみたい』
『し、シオンちゃん!?』

 思わずガルクが名を叫ぶ。その横で、シェリルも驚愕にうち震えた。

『こうやって……私は、犯した罪を片っ端から忘れてしまうの……。それが、神皇様とペリュトンの契約だから……。宿主≠ナある私は、ペリュトンを使役することはできても、制御することはできない……。今、ようやく思い出した……。百数十年間、同じことを繰り返してきた……。その度に全ての記憶をペリュトンに喰われ≠ト、何事もなかったかのように、世界をさすらう。ただ、神の手先≠追い求めるという使命だけを、心に刻みながら』

 ガルクとシェリルを庇いながら、カシスもシオンの独白を聞いた。だがそれは話しかけるというより、教会での懺悔に似ていた。俯いたままのシオンは、表情が見えない。だが、泣いている。心の底から泣いていることが、声の震動で伝わってきた。

『だーけーど!』突如として声の主が入れ替わる。顔は上げない。三人はびくりと体を痙攣させた。『もう、シオンの記憶を奪う必要はないんだ。何故だと思う? それはね、確実に神の手先≠フ波動が近づいているからなんだ。だからこれ以上、無知で無力なシオンちゃんでいられては困るのさ! 目的を達する瞬間には、きっちりとザルハリオス帝国の極星シオンでいてもらわないとねぇ』

 不快な声だった。耳の中に生える産毛が一本一本蠕動させられるような、そんな音。

『そこで、許された行為、二つ目』

 シオンの顔に、禍々しい笑顔が宿った。

『私が殺せるのは、原則シオンに危害を加える者だけだが、もし一度目覚めて腹が減っていれば……。満腹になるまで°らい続けることができる』
『……え?』

 シュラ族の三人は、耳を疑う。

『私はシオンの絶望≠竍悲しみ≠ェ大好物なんだがね、この先記憶を奪わずに生きていくとなれば、もはやほとんど私の出番は回ってこないと言っていい。つまりは、あまり食事ができなくなる。だからザルハリオスは、私が目覚めたときは好きなだけ喰っていいと許可したんだ』シオンの影が陽炎のようにゆらめく。『安心したまえ、私が食べるのは、キミらの肉体≠ナはない。死の直前にその心を支配する、凝縮された負の感情=Bこの上もなく美味なその想いを引き出すために、少々手荒な真似をすることを許しておくれ』

 がくん。
 再び、シオンの体が先ほど同様傾ぐ。不愉快そうに舌打ちをすると、彼女はまた自分自身と対話し始めた。

『……分かったよ。どうやらシオンは、キミらの記憶からシオンちゃん≠消去することを望んでいるようだ』
『どういうこと?』ガルクが震える声で訊く。
『哀れだね。少しでもキミらがシオンを好きになってしまったから、彼女は深く自分を責めている。自分は愛される資格などない=B誰の心の中にもいない方がいい=Bそんなことばかり叫んでいるよ……』
『いや、シオンちゃん!』

 泣きながら叫んだのはシェリルだった。ガルクは、妹のこんな大きな声を初めて耳にした気がした。

『ははは……偽善だね。つまりは、私ではない。こんな惨い仕打ちをするのは、決して、私ではない≠ニ、思いこみたいだけじゃないか。とんだ茶番だよ、シオン! お前は甘すぎる! 弱すぎる! 脆すぎるッ! つくづく、お前の中の、強大な力に釣り合わない性情だよ……!』
『ガルク、シェリル……。俺は、お前たち二人を守れそうにない。それどころか、誇り高きシュラ族として、自らを滅する仇敵の顔すら忘れてしまうかもしれない……!』

 カシスが、幼い兄妹に語りかける。

『覚えていよう。あいつがどんなまやかしを使おうと、族長たちを手にかけ……この村を滅ぼすであろう、あの女の顔を……絶対に忘れないよう、魂に刻もう!』

 ガルクとシェリルは、カシスの言葉に頷いた。だが、心のどこかでは正反対の想いも働いていた。忘れたい。優しい笑顔、柔らかな雰囲気、しっとりとした掌。それらが全て裏切られ、無碍に踏みにじられた辛い出来事を、頭の中から綺麗サッパリ消し去ってしまいたかった。

『まあ、いいさ』シオンが一人で叫び、一人で納得した。『シオン、お前の望み通り、この三人とあと一人≠フガキから、お前の記憶は消してやる。安心しろ、その後で、お前自身≠ゥらも四人のガキの記憶はなくしてやるさ。その方が、すっきり神の使い≠探しに新たなスタートを切れるからね』

 シオンの影から、何かが生えた。
 羽……。
 それは眩いほどの蒼き光を放つ、美しい羽だった。だが、その形が大きくなるに従って、羽にはある種の汚れが付着しているように見える。血だった。いつ付着したのか、どれくらいの時間付着しているのか分からない。だが、その血は、まるで今まさに返り血を浴びたかのように、鮮やかな赤色をしていて、撥水性のある翼を流れていた。

 神々しさと禍々しさが同居するその光景に、三人は魅入る。そして、次に聞こえた声が、カシス、ガルク、シェリルの、生身の体で最後に耳にした音となった。



――イタダキマス。



 それからほどなくして、森の奥にある寺院から、男の咽び泣きが響いた。
男はまず、石段から流れ落ちる大量の血を目の当たりにした。そして、半狂乱となってそれを駆け上がった。頭の中には走馬燈のように、幼い子どもたちの笑顔が明滅する。最悪の結末がその先に待っているとしたら、それを導いたのは間違いなく自分だった。元凶を村に招き入れたのは、他でもない、彼……ワンなのだから。

 果たして、滝のような汗を滴らせながらワンが目にした光景。それは自身が心の奥底に封じようとしてきた悪夢と酷似していた。完全に壊された、けばけばしい赤に彩られた臓腑の残骸。それまで生命体として活動していた肉体が、時間を追うごとに腐り果てていく過程で放つ臭い。時折、木の枝からしたたり落ちる、粘性を持った血の雫の音。

 視覚・嗅覚・聴覚全てから、ワンは絶望≠受け取った。どうしてだか、彼はある死体へ一目散に駆け寄った。その体は小さく、右手と両足がなくなっていた。元から小さかったのだろうか。今ではワンの腰から下ほどの大きさしかなかった。

 その傍に落ちていたのは、胴にあたる部分がごっそりと消失した遺体。顔はついていた。口から吐き出された吐瀉物にまみれ、濁った瞳。だが、その顔は紛れもなく、ワンが毎日目にしていたものだった。彼は二人の遺体を抱き、力の限り叫んだ。もしかすると声など出ていなかったのかもしれない。鼻の奥がツンと痛む。わけが分からなかった。ただはっきりしていることは、二度と、ガルクの笑顔を見ることはできない。もう二度と、シェリルの体を抱き締めることはできない。そういう現実だけが、やけに鮮烈な印象となって、ワンの頭に叩き込まれた。

 どれくらいの間泣いていたのだろう。
 夕闇が迫る境内で立ち上がったのは、もはや以前のワンではなかった。全身から黒いオーラを立ち上らせ、泣き腫らした目は般若のそれのように落ち窪んでいた。彼は走り出した。息をすることすら忘れ果て、無意識のうちに剣を抜いていた。聖剣エクスカリバーは、沈む寸前の、赤々とした夕陽に照らされ、その名に相応しくない光を宿していた。まるで、持ち主の心を映す鏡のように。



+++



『だ、だめだ……! 物理攻撃がまるで通じない!』
『弱音を吐くなッ! ワンが戻るまで何とか持ちこたえるんだ!』

 シュラ族の村はこれまでにないほどの喧噪に支配されていた。族長や補佐役、果ては村一番の実力者であるワンまでもが行方不明。加えて、正体不明の敵の来襲。浮き足立つ戦士たちを必死でまとめるのは、ケインだった。前線で敵と戦う戦士の訃報が次々と届けられる。それも、恐ろしい早さで。仮にも戦闘民族であるシュラが、これほど一方的に嬲られている現実を、ケインはどうしても受け入れることができなかった。

『やむを得ん! 俺も出る!』
『あ、あいつはもうすぐそこまで……!』

 ベースとしている村の中心広場から、ケイン自ら打って出ようとしたとき、路地裏から戦士の一人が転がり出てきた。見れば、全身に無数の傷を負っているようだ。その表情は恐怖で歪んでいる。どれほどの苦境に立たされようが最後まで戦い続けることを、幼少の頃より頭に叩き込まれるシュラ族。例外はない。だからこそ、ケインはこのとき見た彼の顔が心底奇妙に感じられた。

 戦士の横の土壁が破砕され、彼を飲み込んだ。そして一瞬後、何かが砕ける濁った音と、液体がぶちまけられる音がほぼ同時に響いた。ケインと残った数名のシュラ族は、歩みを止めて立ち尽くす。土煙の向こうに、何かがいた。

『……どうしてだ』

 その姿が露わになったとき、ケインの口をついて出たのは、そんな言葉だった。全身に返り血を浴び、美しい双眸を不気味に歪ませ、朦々とした煙の中から現れたのは、ケインたちがアリログ族の集落から救い出した少女、その人だった。

 ゆったりとした足取りで、シオンはケインたちに歩み寄る。少女だ。ケインは思った。纏っているのは魔界の瘴気に相違ない。だが、彼女の目の輝きはどうだ。血の匂いで充溢するこの場において、まるで花畑でも散策するような光。だからこそ、返り血に濡れるシオンが、先日の少女と同一人物であると認識できた。

『キミは、いや、お前は……誰だ』

 ケインが呻くように訊いた。

『私はシオン。天からの使者。あまねく生命を刈り取る者。そして、お前たちが招き入れた、災いの種。しかし、開花させたのはお前たち自身』
『なんだと?』
『これは運命だ。シュラは、結局私という存在によって刈り取られるさだめだったのさ。かつてお前たちは、私と邂逅を果たした。それで滅び去らなかったのは幸運と言えたはずだ。しかし今、私は再びこうしてお前たちの前に立っている。この意味が、分かるか?』

 ケインをはじめ、若い戦士たちは、シオンの言葉が何を表しているのか理解することはできなかった。だが、刻々と迫る死≠フ恐怖だけは、彼女の姿を見ているだけで実感させられた。

『今度はのがさん。運命とは往々にして、不可避な現実となって立ちはだかるものだ』
『ふざけるな! 貴様が一体何を言っているのか、俺たちには分からない。だが、殺すと言われて、何もせずに殺られるほど、シュラの戦士は諦めがよくないんだ!』

 シオンは両手を持ち上げ、大仰に溜息を吐いた。

『そうだ。力の限り、私という運命≠ノ抗え。潰える直前、一縷の輝き。命は戦ってこそ燃え上がる。私は……そういう光を食べるとしよう』

 炎の灯りに、無数の影が揺れた。
 ケインを筆頭に、シュラ族は一斉にシオンへと躍りかかる。全員の目は深紅に染まり、常人では認識すらできないほどの速さで標的との距離を詰めた。

 ケインは大剣を振りかぶる。身の丈ほどもあろうかという刃が唸り、華奢な少女に襲いかかった。ぱりっ、という音が、羅刹眼によって増強された聴神経に突き刺さる。嫌な予感がした。大抵の場合、彼の予感は的中する。

 大剣の中心部分が砕け散り、輝きを放つ細い指先が、光芒を放った。

『ぐあ!』

 二丁戦斧を操るシュラ族が、腹部を貫かれた。衝撃は凄まじく、彼の体は燃えさかる家屋へと吹き飛ぶ。背後から強襲したはずの、三節棍使いの頭部が打ち砕かれる。ケインには見えていた。シオンが防いだのは、大剣による自分の攻撃だけだ。残りは全て、彼女の影から現れた不気味な何か≠ノよるものだった。

 間一髪のところで、ケインは鋭い斬撃に似た一閃を回避する。唯一仕留め損なったケインを賞賛するかのように、何か≠ヘシオンの横で緩慢にうごめいた。それは、蒼い微光を持つ、翼だった。

『素晴らしい』

 シオンが言った。だが、その声は少女のものではなかった。喉に泥がぎっしりと詰まったかのように、実体のない音。ケインは全身に冷水を浴びた心地がした。

『全員始末するつもりで攻撃したはずだったが……。いいね、なかなか楽しませてくれる』
『何だというんだ……。貴様は一体、何なんだ!』

 気が狂いそうだった。悪夢としか言いようのない現状に、ケインの正気は浸食されていく。昨日まで元気だった仲間たちが、まるでゴミ屑のように地面に転がっていた。もう、どれが血の赤で、どれが炎の赤なのか判別できないくらい汚れた大地に、シオンの濡れた足音が響く。

『天に煌めく、魔性の星……。それに寄り添う五つの守護星。私はそのどれにも属さない。我が身を紅蓮の炎に灼かれ、どれほど砕かれ、微塵になろうとも、ただただ主に仇なす者どもを葬り去る帚星』

 シオンの右手が上がる。もはやケインは、反応すらできない。

『……だったかな?』

 唐突に、右目が光を失った。頭でいちいち認識しなくても、直感的に分かった。ケインはその瞬間に命を失っていた。だが、その肉体は動いていた。シュラ族の血に刻まれた戦闘本能が、骸を無理矢理動かしたと言っていい。頭部の四分の一を失いながらも、ケインは咆吼をほとばしらせながら、折れた剣をシオンに振り下ろしていた。

 黄泉への門を叩く直前、戦士ケインが見た光景。それは、この場に溢れるどんな赤よりも鮮やかな紅色の涙を流しながら嬉しそうに笑う、極星シオンの顔だった。

『ウオオオオオオオオオオッ!』

 周囲の大気が鳴動した。
 家屋を包む炎も、その男の怒気にたじろいだように身をくゆらせる。シオンの体が、がくりと揺れた。全く意識していなかった方向からの衝撃に、彼女の表情が微かに曇る。『ほう、不意を突かれたとはいえ、私が防ぎ切れんか』今喋っているのは、どちらだろう。とりあえず、その声には依然として余裕が感じられた。

 シオンの左脇腹の衣服がはだけ、後から赤い染みが広がった。彼女の前方に、一人の男が立った。手にした黄金の剣からは青白い靄のようなものが立ち上がっている。蒼い翼の絶対防御を打ち破った斬撃。それほどの使い手は、この一族に一人しかいなかった。

 右の翼の先端に突き刺さっていたケインの死体を無造作に放り投げ、シオンは男に相対した。

『そうだ。お前が出てこなくては、この悲劇は完結しない。見えるぞ。お前の心は憎しみで満ちている。当然だ。その感情、全て私にぶつけてくるがいい。これほどの怨念は、さぞかし美味であろう。なあ、ワン?』
『……て……は』
『?』
『全ては、俺の責任。お前が何者で、何故こんなことをしたのか、理由は分からない』

 夜空にそのまま溶けそうな声で、ワンは言った。

『……では、俺はどうすれば良かった? あのまま、アリログ族の住処で佇む少女を見捨てていれば、このような事態は避けられたのか? あるいは、少女について、俺は絶対に口を割るべきではなかったのか? 族長たちに気づかれる前に、村から出すべきだったのか? ガルクやシェリルに会わせなければ、妻に彼女の世話をさせなければ、あの子に出会わなければ良かったというのか!? 分からない。俺には分からない……! だが、だが、だが、事実は変わらない。俺の息子は、娘は、村人たちは、誰一人として生き返りはしない! みんな、お前が殺したからだッ! オマエが、オマエがみんなをッ! その事実だけは、絶対に変わることのない真実! 俺を裏切ることのない、ただ一つの真実なんだあぁッ!』
『ではどうする!? 戦士ワンよ、貴様はその真実をどう受け止める!?』

 ワンはエクスカリバーを正眼に構え、落ち窪んだ眼窩から呪いに満ちた光を放ちながら、低く、震える声で一言だけころす≠ニ言った。

『……ワン』

 シオンは目を閉じ、天を仰いだ。
 眉尻が下がり、唇から艶めいた舌が覗いた。

 彼女は、恍惚に打ち震えていた。

『正しいよ』

 快感が全身を駆けめぐる瞬間を、待ちきれなかった。
 シオンはまるで愛する人を抱き締めに走るかのように、その蒼い翼を鋭利な刃物に変えた。










to be continued……
yt
2009年11月18日(水) 02時11分37秒 公開
■この作品の著作権はytさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
大変長らくお待たせしました。自由な時間が学生時代と比べてグッと減ってしまい、試行錯誤しながら何とか123話を上梓します。

私のホームページも近いうちに更新しますので、是非お越し下さい。

とはいえ、可及的速やかに遂行しなければならないのはザルハリオスを進めることですよね……。頑張ります(汗)

ご覧になっているかどうか分かりませんが、光助さんの質問に答えさせていただきますね。私は中学一年生からモノカキをしています。本当に最初に書いた作品は、今でもこのサイトのどこかにあります。もし興味があれば、探してみて下さい(笑)

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